2022年02月12日
2月の京都ぶらり散歩。午後から思いつきで坂本龍馬のお墓参り
土曜日に思いついたように京都にぶらり散歩を
今月は八坂神社から高台寺、霊山護国神社と霊山歴史館と京都の東側をまわります
京阪四条、いや祇園四条駅を降りて八坂神社に

距離は遠くないのですぐに
三連休なので観光客が多い
それと12℃と2月にしては暖かい日なので着物姿になった観光客がちらほらと見られます
谷三十郎※1 の死体が転がってた場所から

槍の使い手であった谷三十郎が死んだ場所で
死因は今も不明
お墓は大阪市北区のお初天神の近くの本傳寺(大阪市北区兎我野町14-3)にあるので今度行ってみましょうかね
ここから八坂神社の外を回るように高台寺方面に
緩やかな坂になるので運動にいい

南に下がると高台寺

ねねの道をのんびり歩いて

高台寺には伊東甲子太郎※2 の御陵衛士屯所跡
次回は伊東甲子太郎が暗殺された場所でも行ってみましょうかね

鳥居を過ぎたら維新の道
ここから結構な急坂を上ります
先に龍馬の墓に行ってみます

京都霊山護国神社ですね
300円を払って神社内に
石段を登って
そんなに神社の入り口から距離は無いです


坂本龍馬(左)と中岡慎太郎の墓(右)
霊山墓地ですね
龍馬が今の時代を生きていたらきっと
「日本を今一度せんたくいたし申し候」と再び乙女に送っていることでしょう(笑
古高俊太郎※3 と大高又次郎の墓
機会があれば古高俊太郎の屋敷跡も行ってみないと
土佐藩、長州藩、肥後藩など1,000人以上の維新の志士たちが眠ってます
桂小五郎の墓はパスで時間が無いのでまた次回ですかね

霊山護国神社の南側が霊山歴史館
900円を払って入館します
展示されているのは龍馬を切った刀とか
近藤勇や土方歳三の刀、西郷隆盛を介錯した刀とか
あとは書簡が多かったですね
池田屋を再現した模型とか
近江屋を再現した模型とかもあります
やはりと言いますか前回行った池田屋跡から
階段落ちするスペースはあるのかと思っていましたが
ちょっと階段のスペースは無いですね
京都なので”うなぎの寝床”です
午後からぶらっと思い付きで散歩をしましたが
春っぽい暖かさで良かったですね
それでも紅梅が咲くまでもうちょっとです
あとひと月
3月末になれば京都も更に歩きやすい
前回閉まっていた角屋も覗きたいですし
※1 備中松山藩士(旗奉行、120石・役料20石)・谷三治郎供行の嫡男として備中松山に生まれる。幼少期より直心一派の師範でもあった父から武術を学ぶ。嘉永6年(1853年)1月、家督相続。藩主・板倉勝静の近習役として仕えたが、安政3年(1856年)10月13日、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後、弟・万太郎と共に故郷を出奔し、大坂南堀江町にて道場を開く。天満八軒屋に居住していたとする史料もある
新選組加盟の時期は不明だが、元治元年(1864年)6月に副長助勤、同年12月に八番組長、慶応元年(1865年)4月に七番組組長・槍術師範を務める。池田屋事件では土方隊の組に属し、事件後は褒賞として17両を賜る。慶応元年(1865年)1月、弟・万太郎ら4名で大坂焼き討ち計画を未然に防ぎ(ぜんざい屋事件)、大坂の豪商・加賀屋四郎兵衛に対する献金要請の際は交渉役を務め、3万1500両もの大金を得ることに成功している。その間、弟・周平は近藤勇の養子となっている。
慶応2年(1866年)4月1日、京都東山の祇園社にて死去。墓所は大阪市北区の本傳寺【Wikipediaから】
※2 近江屋事件から3日後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。享年34。
伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警戒したためと思料される。伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す囮として使われた。後に収容に来た御陵衛士たちは待ち伏せていた新選組と戦闘となり、藤堂らが戦死している。
墓は、京都市東山区の戒光寺。慶応4年(1868年)3月13日、御陵衛士により京都市下京区の光縁寺から改葬された【Wikipediaから】
※3 元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組に踏み込まれ捕縛される。武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見された。壬生屯所前川邸の蔵で局長・近藤勇、副長・土方歳三から直々に厳しい取調べを受けた。2階から逆さ吊りにされ足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられる等の過酷な拷問を受け、自白。その内容は八月十八日の政変後、京を追われた長州人らが6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ち佐幕派公卿の中川宮を幽閉し京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとするものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており近々市中で同志の集会があることも判明し、これを阻止したのが池田屋事件である。ただし計画の内容は古高が拷問を受けて発言した以外の客観的な証拠が乏しく、捏造もしくは誇張であるとも言われる【Wikipediaから】

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Posted by くろたろう at 11:33│Comments(0)
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