2022年01月16日
ぶらり路地裏さんぽ。京都の新選組の地を少し周ってみる
土曜日の朝
釣りに行かなかったので、思い立ったように京都の町をぶらぶらしようと
子どもも誘いましたが行かないとのことで
一人でお散歩
急に思い立って京都に遊びに行ける地の利の良さ
大阪は有難い場所です
さて、どこに行こうかと思いましたが
新選組に由来する場所を見に行こうかと
となるとまずは角屋あたりですかね

以前は京都駅から梅小路に行くにも不便でしたが梅小路京都西駅ができて便利になりました
子ども連れの家族は梅小路の鉄道博物館もしくは京都水族館のどちらかでしょう

駅を降りて北に上がると標識が
角屋まで徒歩7分と駅チカ
ぶらぶら散歩しているとすぐに到着
新選組が飲み会に使っていた今で言うところの料亭ですね
かつては新選組の起こしたトラブルもあって
柱には今も刀傷が残されています
今は21年3月末ごろまで休館中で中に入ることはできませんでした
かつて存在した花街-※1 の中の飲み屋さんですので、
いかにもそのような佇まいですね
いま放送されている鬼滅の刃のシーンそのものですわ(笑
大門にまわってみます
途中にある温泉に入ろうかと思いましたがまたの機会で
京都の町家を丁寧に見ていると
このような鍾馗(しょうき)※2 が軒下に飾られたりしています
大阪では見られないモノでいかにも京都って雰囲気でいい
すぐに島原の大門に
こういったのを見るとかつて花街だった様子がうかがえますが
現在は花街ではなく住宅地って感じに置き換わっています
昼飯を食べようかと五条通をうろつきますがお目当てのラーメン屋さんが見当たらない
家に帰ってから調べたらもっと南の通りでしたわ(笑
京都の町家散歩を進めます
もっと北に上がって壬生寺を目指します
途中の町家も雰囲気のいいのが多い
ただ普通に個人宅なので撮影するのも気を使いますね
のんびり歩いていると壬生寺に到着
新選組に関する資料が置いてあるので見に行きます
入館料200円を払ってまずはお墓に
初代新選組局長の芹沢鴨のお墓がありますよ
1863年に土方歳三らに暗殺された、かなりの乱暴者だったようですが
新選組自体も今でいえば幕府をバックにした無職の半グレ集団ですわ(笑
あ、途中から会津藩の松平容保(まつだいらかたもり)に雇われましたですかね
※台座に比べて墓が新しいので建て替えましたか
次に資料室に
撮影ができないので画像はありませんが
無敵の剣と呼ばれた三番隊隊長、斎藤一の使っていた日本刀なども見ることが出来ます
思っていたより意外と短い刀でしたね
更に散歩を続けます
新選組屯所に使われていた八木邸※3 では新選組に関する資料を見ることができますが今回はパス
それにしても角屋から屯所まではまずまずの距離で
冬場なら飲んだ酒の酔いが醒めそうな距離ですが
昔の人はどうしてたんでしょうね
玄関付近だけ
新選組の屯所に同じく使われていた旧前川邸も中に入らず
入口の土間の辺りで新選組グッズの販売があるようです
嵐電を渡って
今回はOLYMPUS PEN Liteに12-40mmF2.8PROのレンズを付けて肩に掛けての散歩なので
ブログには全てアップしていませんが
かなりの枚数を撮影しています
カメラが軽いのでフットワークのいい撮影ができて持つのも苦になりませんね
ここで昼食
お店を探しますが結局よさげな店が無いのでなか卯で
わざわざ京都でなか卯ってのもまたいい(笑
バスの乗り継ぎ番組で蛭子能収さんがご当地グルメを食べない意味が分かりましたわ
普段の安定感が欲しいのでしょうね(笑
さてバスに乗ろうかと思いましたが時間が合わないので阪急で四条河原町まで
そこから北に上がって三条を目指します
※水深約5cm これで罪人を乗せた船が浮かびますかね?
高瀬川沿いをぶらぶらと
のんびり歩いても四条から三条の間はすぐ
三条についたらまずは池田屋※4 に

今は幕末をモチーフにした居酒屋になっているので当時の趣はありませんが
玄関先に碑が立っています
恐らく当時の池田屋はもっと大きかったと思われます
この店の小ささでは何人もが中で切り合うスペースが無さすぎます(笑
この間口じゃ、北添佶磨※5 が階段落ちもできないです(笑
最後は三条大橋に

新選組が付けたと言われている刀傷が擬宝珠(ぎぼし)に残されています

※黒くなっている部分に刃物で斜めに切った傷があります
分かりにくいね
南側の欄干、西から二つ目です
本当かな、これ?(笑
帰ってから子どもに話したら京都の人が客寄せで付けたんとちゃう?とのこと(笑
これで今回の京都の路地裏さんぽは終わり
今度は山南敬助※6 のお墓でも見に行きましょうかね
それとも北野天満宮から上七軒※7 あたりをぶらぶらしましょうか
思い立ったらすぐに行けるのがありがたいです
※1 室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した[1]。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある 【Wikipediaから】
※2 民衆のあいだでは、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになった。京都市内の民家(京町家)など近畿 - 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 - 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。
これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる【Wikipediaから】
※3 現在も八木源之丞の子孫が継承している一方、歴史的建築物として一般に公開されている。芹沢鴨が暗殺された際に付いたとされる刀傷など、新選組にかかわる遺構がある【Wikipediaから】
※4 池田屋事件の池田屋。池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている【Wikipediaから】
※5 池田屋事件の際、新撰組の近藤勇によって北添佶摩が斬られ2階階段から壮絶に転がり落ちる、いわゆる階段落ちのシーンが生々しく描かれており、このシーンはつかこうへいの戯曲『蒲田行進曲』においても重要なプロットとなっている。しかし、池田屋事件の際は自刃していることが判明しており、このシーンは子母澤の創作であると考えられている【Wikipediaから】
※6 江戸時代末期(幕末)の日本の武士・新選組隊士(副長、総長)。陸奥国仙台の出身とされる。諱は知信(とものぶ)。晩年は三南三郎を名乗っていた。
近藤勇らとともに新選組を結成する。当初は副長、後に総長を務めた。
屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深め、最終的に脱走したことで、新選組の隊規に違反したとして切腹とされているが、確たる文献や証明する歴史書等はなく、何故切腹にまで至ったか真相は謎である【Wikipediaから】
※7 京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街である。室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。毎年春になると上七軒歌舞練場で『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っている【Wikipediaから】

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Posted by くろたろう at 11:05│Comments(0)
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